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2009年5月

何をやっているんだか

 今日は、職場の同僚に入社歓迎会をやってもらって、かなり酔っぱらっている。

 連れて♪逃げてよ♪♪
 ついておいでよ♪♪
 夕暮れの♪雨が降る♪矢切の渡し♪♪

 医者にアルコールは厳禁されているはずなのに、何をやっているんだか・・・

 日本の雇用情勢は日々悪化している。愛知の有効求人倍率は0.52倍で、つい先日まで職安で列を作って並んでいた仲間の半数はまだ、仕事を見つけられずにいる。

 また、例え見つけたとしても、十数万円という低賃金で、家族を養って生きていくことすらむずかしい状況だ。

 アリョーハは現在、毎朝、鶴舞公園を散歩がてらに横切って通勤し、最新鋭の設備が整った大学病院の中央管制室でいろいろなモニターを見ている。

 嵐のような、3月、4月の後に、こんなおだやかな日々が来ようとは思っても見なかったが、しばらくはのんびりしたいという気持ちと、自分だけこんな生活を送っていいのかという気持ちが入り混じっている。

 見捨てないでよ♪
 捨てはしないよ♪
 北風が♪泣いて吹く♪矢切の渡し♪♪    

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ラジオ体操

 大きな病院だから、設備管理の人も多くて久しぶりにラジオ体操をやった。

 電気工事屋として、工事現場に出入りしていた頃は、毎日、朝礼とラジオ体操をやっていたので、久しぶりに労働者に戻れたような気がした。

 でも、体操が終わって、朝礼の時に、「この度、エネルギーセンターのセンター長として勤めていただく・・・・」と紹介されてびっくりした。

 そんな話は何も聞いていない・・・・

 結局、後でその話は断った。

 最近の反省点として、人を頭ごなしに叱りとばすような、横柄な態度は改めようと考えている。

 どうも、こういう人を人とも思わない悪い習慣は、電気工事の現場監督をやっているうちに、知らず知らずのうちに身についてしまったような気がする。(教員をやっている頃はもっと大きな権限を持たされていたが、あの頃はもっと、紳士的で、人に対しておだやかであったような気がする)

 何か、ムッとすると、たちまち地が出てくるのは、本当に、よろしくないことであると思う。

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おもしろいことになってきた

 少し前、名古屋であやしげな“水商売”がはやっていた。

 地下水をくみ上げて浄化して、それを売るという商売だが、その商売相手は名古屋大学や中部労災病院のような“独立行政法人”であり、現場の強い反対を押し切って、その“水商売”が行われるようになったのは“金バッジ”(国会議員の俗称)がバックについているからであるというもっぱらのウワサだった。

 しかし、ここに来てその“水商売”の黒幕の“金バッジ”が誰であるのか、あぶり出されつつある。実際、われわれがこういっただけで、名前を言わなくとも名古屋市民のみなさんはその“金バッジ”の正体が分かるはずだ。

 そう、名古屋を水不足にして、あやしげな“水商売”を繁盛させようとしている人ですよ。

 この商売があやしげなのは、この水は“クローン牛”のようなものであるからだ。

 確かに、現在の水処理技術は進歩しており、汚れた水を飲料水にすることは可能であるし、宇宙空間ではオシッコを浄化して飲料水にしている。

 しかし、そういうこととそれを飲料水にして不特定多数に飲ませることとは違う。

 東山地区にある名古屋大学はともかく、中部労災病院は戦前からの南部工業地帯にあり、となりには住友軽金属の工場もある。近くには東邦ガスの工場の跡地もあるが、ここの土壌はひどく汚染されており問題となったことがある。だから中部労災病院の地下水が重金属で汚染されていることは間違いがないことなのである。

 アリョーハは以前、知多市にある亜鉛溶融メッキ工場の設備担当をやっており、排水処理係も兼ねていたが、排水からカドニュウムが検出されるといっていつも知多市の保険所に呼び出されていた。

 原料の純度100%の亜鉛といっても、鉱石の性質上どうしても微量のカドニュウムが含まれているから、溶かした亜鉛槽に鋼材を入れ、それを水槽で冷やせばその水にカドニュウムが含まれのは当然といえば、当然だった。

 もちろん、亜鉛溶融メッキ工場は、あやしげな“水商売”がやっているような薄膜方式ではないので何とも言えないが、そこまでして汚染された地下水を浄化して飲料水として患者や医療労働者に飲ませる必要性や必然性があるのかという点では疑問が残る。

 どうせ中部労災病院は金儲け第一主義で、病人の命や健康などどうでもいいと思っている病院だから、患者がイタイイタイ病になろうが鉛中毒になろうが、それはどうでもいいことで、“水商売”から買う水は名古屋市の水道水よりも安いから経費節減になって病院が儲かると思っているのであろう。

 そして、中部労災病院の院長は厚労省の役人のなれの果てなのだから、“金バッジ”(国会議員)には、めっぽう弱いので、“金バッジ”から名古屋市の水道水よりも“水商売”の水を買ってくれと言われれば、一も二もなくそうするのである。

 この“金バッジ”(国会議員)、現在では、「元」といった方がいいのだろうが、もし裏で“水商売”と金でつながっているということにでもなれば、民主党は総選挙前に姿を消すことになる。  

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退職の理由

 今日の『日本経済新聞』に失業給付の記事が掲載されていた。

 現行の失業給付では、自己都合での退職と、会社都合(倒産による失職や解雇)での退職の間に大きな差があり、自己都合での退職は不利であるにもかかわらず、会社が“勝手に”自己都合での退職と書くために失業給付を受けられない人が多くいる、というものだった。

 アリョーハは4月1日に無職渡世人になったが、そうなった経緯はつぎのようなものであった。

 ①アリョーハの勤めていた病院の設備保守管理請負の業務を入札で、他の会社が落札した。

 ②この時、アリョーハには3つの選択肢があった。それは、A、落札した新会社に雇用してもらい病院に残る。B、元の会社に残り他の現場へ転勤する。C、会社を退職して自分で新しい会社を探す。

 ③結果として、アリョーハは、新会社の提示した賃金が安すぎ労働日数も増加する、元の会社の提示した移転先が清掃業務であり賃金が大幅に下落する、という理由でCを選択した。

 だから、アリョーハの離職票の離職理由には40番(自己都合による退職)と書いてあった。

 しかし、この退職はアリョーハの望んだものでも、「自己都合」でもなかったことは明らかである。確かに、Cを選択したのはアリョーハであったが、その選択は強要されたものであり、自分の意図したものではなかった。

 現在、多くの職を失った労働者の中で「自己都合による退職」となっているのは、ほとんど大なり、小なりアリョーハのようなケースが多い。つまり形式的には「自己都合による退職」になっているが、実質的には、強要された退職である場合が多いのである。

 だからといって、こういう労働者の離職票を「会社都合」に書きかえても問題は何も解決しない。

 そもそもが、退職理由によって失業給付に差をつけることがおかしいのである。労働者は奴隷や農奴ではないのだから、「勝手にやめるのは許さん。処罰の対象にする」といわれても、労働者には、労働の自由も、自分の勤務先を選ぶ権利もあるのだから、そういうものは尊重されるべきであろう。

 こういった制度、退職理由によって失業給付に差をつけて、労働者の自発的な退職を抑制しようとする制度は、日本の終身雇用制に対応している。

 労働者は一生を、一つの会社で働き続けるという前提のもとで、現在の日本の雇用保険制度(保険ばかりではなく雇用制度全体)は成り立っており、この制度からは自らの意思でずれていこうという労働者には、懲罰的な意味で、つまり、生活を不安定にして困らせてやろうという意味で、3ヶ月の給付制限やら、失業給付の給付日数に差をもうけている。

 この日本型の終身雇用では、急速に高度化し、発展する社会の変化に対応できないということで、資本は小泉政権のもとで、派遣労働とか、その他もろもろの新手の不正規雇用を拡大していったが、それに対応するかたちで雇用保険制度や労働者の雇用を守る諸施策が改変されなかったので、今回の経済危機の中で、不正規雇用労働者が大量に“解雇”され、“解雇”されても失業給付ももらえず、文字通り、住むところもなく真冬の街頭に放り出されてしまったのである。

 もちろんこれは資本の性ばかりではない。日本の全政党(共産党や革マル派、中核派といった左翼を含む)、全労働組合が日本の終身雇用制度は守られるべきであり、労働者の移動の自由というのは認められるべきではないという見地に立っている。

 かくして、現在の日本の雇用保険制度(保険ばかりではなく雇用制度全体)をより柔軟で労働者にとって(資本にとってではない)利用しやすいものにしていこうという試みは、試み自体が許容できない悪として否定されることになる。

 一方で、変化を求め、変化に対応した産業の再編成を求める社会(もちろん資本主義社会のこと)があり、それを絶対に許さないという硬直した社会がある。

 そういう点では、現在の日本の雇用保険制度(保険ばかりではなく雇用制度全体)は立ち往生しており、ますます隘路へと踏み込んでいると言えよう。

 その結果として、若者と中高年労働者へこの社会の矛盾がしわ寄せされているのである。

 そして、若い人が希望を持つことができない社会は長くは存続し続けることができないことは、歴史が教えている。

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内定が決まった

 ようやく、新しい就職先が決まった。

 某国立大学病院の設備係で、アリョーハの釜焚き日記は、アリョーハの失業日記と名前を変えようかと思っていたところなので、まずは一安心というべきであろう。

 しかし、この内定というのは始めてもらった。

 大学を出た時には、どこにも就職先がなくて、卒業式の日に先生にこれからどうするのか?と聞かれて、「何も考えていません」と答えたら、ひどく叱られて、ここへ行けといわれて、行ったところが刈谷にある某定時制高校の世界史の講師だった。

 “電気工事屋”になってからは、ほとんど、面接時に即決で、中には、面接に行って、あまり話もしないうちに、明日何時にこういう仕事をやるから、どこどこの現場まで来い、といって作業服と施工図を渡してくれたところまであった。

 電気工事業は仕事をやってナンボの業界なので、当人がどういう経歴で、どういう人物であるのかということは、あまり重視されていないからそうだったのだろうが、そういう業界に長くいたために、こういう就活(就職するための活動)だの集団面接だの、内定だのというのは、何か非常に違和感があった。

 できれば、もうそういう経験はしたくない。

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生活保護という方法

 前回、「キャッシュがほしい」と言ってしまったので、何か誤解する人がいるかも知れないので、きちんと言い直します。

 確かに、アリョーハは現在、失業中であり、収入がないので、一番ほしいものはキャッシュ=現金です。

 しかしこのことはアリョーハも「生活保護でも受けたら」という話にはならない。

 確かに、あと1、2ヶ月こういう状態が続いたら、それこそ、生活保護も考えなければならないのだろうが、アリョーハはそこまで失業している気はないし、三食の食事を二回にしてでも、パンの耳をかじってでも、仕事を探し続けるだろう。

 去年の暮れ、「派遣村」が作られ、“村長さん”が解雇された派遣労働者を連れて行ったのは、「ハローワーク」ではなく、「区役所」だった。要するに、生活保護の申請だったのだが、ここには何か大きな違和感があるし、問題も含んでいる。

 つまり、この人たちの「反貧困」運動というのは、貧しい人々に何か(お金や食事)をくばる運動であり、国や地方自治体にくばらせる運動なのだが、この人たちの意識には、この世、つまり、この資本主義社会において、一方で道ばたに施(ほどこ)し物を投げ捨てるものがおり、他方においてその施し物を拾わなければ生きていられない人々がいるということをどう思うのかということがまったく欠落しているのである。

 このような社会は決して平等な社会でも公正な社会でもなく、重大な欠陥をもった社会であり、より公正で人々によりやさしい社会システムへと移行しなければならない時期がそこまでやってきているのだということが忘れられている。

 現在、日本の階級構成において、労働者階級の小さくない一角がくずれて、その最底辺部が階級脱落(ルンペン・プロレタリアート化)しようとしているのは偏(ひとえ)に、日本資本主義の搾取の強化(低賃金政策)の結果である以上、ますます深刻になっていく貧困問題の解決には日本の労働者階級の力、すなわち、資本の支配に抗して自分たちの階級的な利益を守り抜けるだけの団結した力を高める必要があるのだが、現在の「反貧困運動」は弱者救済運動としてしか考えられていないために、そういう運動にはなっていない。

 むしろメーデーで派遣村の“村長さん”が労働組合に向かって言ったように、「市民の側」に立つように訴えたように、労働運動を「市民の立場」(弱者救済運動)に解消することが正しいあり方であるという。

 確かに、失業、低賃金、不安定な雇用は貧困と密接に結びついている。現在、資本によって一方的に解雇された派遣労働者が文字通り路頭に放り出されているのだから、彼らに対する社会の支援は必要不可欠である。

 しかし、そういうことに満足しているだけの運動では、何も解決しない。むしろ生活保護が激増している現状では、限られた財源で運用されているこの制度はやがて大きな困難に直面することは明らかである。

 そういう点では、もっと前に進もうという労働者の声のみが未来を決するような時代が近づきつつある。

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行くあてもなく

 ゴールデン・ウィークが終わって、これまで家でブラブラしていても、誰も何も言わなかったが、少しずつ、世間さまの見る目が冷たくなっている。

 それで、日中は家をでるようにしているのだが、お金を使わずにのんびりとできるところは、公園ぐらいしかない。

 だが、今日のように雨が降っているときに、屋根のついたベンチに座って雨を見ていると、それこそ、「時は今、天が下つる、五月かな」(明智光秀)だよ。 

 明日は、失業説明会で、ハローワークから失業者はいかにあるべきかという、ありがたいお話があるそうで、職安に行かなければならない。

 だけど本当は、お話よりも、何か(キャッシュがいい)くれた方がもっと、もっとありがたいのだが。

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インフルエンザをあなどるべからず

 こういう秘密の暴露をするのはどうかと思うが、もう20年以上も昔のことだから時効ということで目をつぶってもらいたいと思います。

 その昔、ある小学校にある教員がいまして、その教員の受け持っているクラスで、インフルエンザが流行し、学級閉鎖になりました。

 流行は、本当に突然で、前日には欠席が2名だったのが、その日には、10名を軽く越えてしまったので、学級閉鎖が急遽決まった。

 子どもに電話で学級閉鎖のことを連絡し、主欠簿を整理している時、教員はあることに気がついた。

 休んだ子どもたちの座席を見ると、T字型に並んでいる。つまり、最前列と教室の中央の子どもたちが、きれいに列を作って休んでいる。

 そのうち、T字型の中で休んでいない子どもが一人いることに気がついた。その子の親はPTAの役員をやっていて結構うるさい人だったので、その教員が無意識のうちに敬遠していた子どもだった。

 ここまで書けば、インフルエンザの菌をばらまいた“憎むべき犯人”が誰であるのか、分かりますよね。そうです、その教員の教室内の通路にそって子どもたちがインフルエンザに罹ってしまったのです。

 その教員、実は数日前から発熱があったのですが、無理をして学校に出てきていたので、こういうことになってしまったのです。

 熱があるんだったら、休めばよかったと思った時には、手遅れでした。

 このことから分かるように、インフルエンザの感染力は非常に高いのです。そういう点では、イヤな病気がはやりだしたなという思いです。

追伸

 これはまったくの余談ですが、現在の豚インフルエンザはメキシコからアメリカに感染が広がるにつれて、世界的な拡散を見せ始めている。

 インフルエンザの流行が隠された人間関係を明るみに出してしまうように、今回の流行でアメリカ人と本当に仲のよい国はどこで、仲が良さそうに見えて案外そうではない国がどこであるのか、あぶり出されないように。そして、後になって、「どうしてボクだけインフルエンザにかからなかったの?」という衝撃的な質問をされないように、願っております。

 

      

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